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まともな日本再生会議:グローバリズムの虚妄を撃つ 書評

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まともな日本再生会議:グローバリズムの虚妄を撃つまともな日本再生会議:グローバリズムの虚妄を撃つ
(2013/11/26)
中野剛志、柴山桂太 他

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本書は、第二次安倍政権の新自由主義的な政策の流れを批判し、
新自由主義、グローバリズムの流れに楔を打ち、
歴史感覚の中にある常識を取り戻す事だという事を説いている。

内容としては、

一章 安倍政権と新自由主義
二章 英語公用化とグローバル・ビジネス文明
三章 新自由主義が政治を殺す
四章 政治を取り戻す、共同体を再評価する
五章 グローバル経済の終わり
六章 漸進主義の時代へ

となっている。

一章においては安倍政権が掲げる移民政策、改革について痛烈な批判を加えている。
新自由主義というイデオロギーは移民政策との親和性が極めて高く、
新自由主義というイデオロギーの性質上、そういう志向に流れていくことが自明の理なのである。

二章の英語公用化という言語、母国語をおろそかにするグローバルビジネス文明に対しての考察と批判である
言葉はある意味その国の国民のアイデンティティーに直結するものであるのだから
これを英語に変えるなどという事は、アイデンティティークライシスに陥る重要な問題なのである。

三章では新自由主義がもたらす政治の死についてである。
新自由主義の教義(ドグマ)である

・オープンエコノミー(開放経済)
・ディレギュレーション(規制緩和)
・スモールガバメント(小さな政府)

の三つの教義である。
政府のやれることを極力なくす、政府の介入や影響力を極力なくすという新自由主義は
政府の存在意義を揺らがせ、国家の枠組みを破壊する危険な教義であり、この3つの教義を教条主義的に
推し進めるという事は政治の死であり、民主主義の崩壊をもたらすと言っている。

四章では共同体の再評価について触れていて
施光恒氏の中間共同体についての考察は白眉である。

また、日本にはまっとうな左翼がいないと言っているが、まったくその通りで
戦後、ヘイワ、九条、人命尊重にだけを重きを置いた自虐的な戦後サヨク(まともでないからカタカナ表記)が
幅を利かせてきた所為、日本人の思考停止ぶりが酷い。いや思考停止というより思考する事を放棄し
戦後幻想の中でポストモダンと結託し、薄められた劣化したサヨクが跳梁跋扈する異常な時代であるという事だ

そしてこの劣化した戦後サヨクが新自由主義同様に、日本の長い年月によって培われてきた
日本の伝統的な中間共同体を叩き壊してきたのだから、まともでないことは明白である。

五章はアメリカの一極集中による支配、グローバル経済の終焉を語っている。
アメリカの世界全体における経済的な地位が低下して世界秩序のバランスが崩壊しつつある。
この指摘は国際政治アナリスト伊藤貫氏がくわしく述べている。
更に深い考察や現在の国際政治を知りたいのなら伊藤貫氏の書籍をお勧めする。

本書ではあくまでも触りの部分、大まかな概略のみを語っているので
その点は内容的に不満である。

話を戻すが、この章において興味深いのは通貨論についての考察である。
この通貨論についての考察は柴山桂太氏が深く語っていて今後通貨論は経済学において
重要なキーになると語っている点が興味深かった。

六章において、保守思想の要諦でもある漸進主義、(グラジュアリズム)について述べている。
中野剛志は問題は漸進主義の立場をとらざるを得ない保守思想、中野自身は保守主義と言っているが
果たして日本がそれまで耐えれるか?という疑問を投げかけてる点は同感である。

自分はこのままいけば日本は漸進主義的な保守的な正常的にゆっくりとした変革を待つ前に
瓦解し、壊れてしまうと思っている。
現在の第二次安倍政権を潰し、今の急進的な新自由主義、グローバリズム路線を潰さなければ
もう日本には時間的余裕は残されていないと自分は考えているからだ。

最後にこの本の総評になるが、
本書で書かれている論点や指摘は現在日本に必要な常識を取り戻すための
重要な思索であると考える。新自由主義、グローバリズムという毒の思想を解毒する唯一の方法は
歴史感覚の中にある常識なのだから。

本書の内容は保守思想の基本的な理念や、経済における基本的な保守思想の考え方を述べたものである
これが理解できないのなら保守を語る資格はあるまい。

深い考察がしたいのならば本書を手始めに、
柴山桂太氏の訳 ダニ・ロドリック著 グローバリゼーションパラドクスをお勧めする

保守における現在の経済、政治の概略を知りたいのなら本書は有用である。
グローバリズム、新自由主義という人類の敵と対峙するための書籍としては本書は有用であると述べておきたい


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僕たちは戦後史を知らない――日本の「敗戦」は4回繰り返された  書評

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僕たちは戦後史を知らない――日本の「敗戦」は4回繰り返された僕たちは戦後史を知らない――日本の「敗戦」は4回繰り返された
(2013/12/04)
佐藤健志

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一つの戦後史観として読むには興味深いが、
    矛盾点やこじつけも多い。あくまでも一つの見方として


著者の本は初めて読んだのだが、面白くもあったが、矛盾点やこじつけによる無理な論理展開が目を引いた
まず、本の最初の方で著者の言う戦後日本のファンタジー戦後史がなぜ崩壊せずに
今もなお継続されているかという点において、
たまたまそうなった、偶然の産物であると言ってしまっている点だ。

それを言ってしまったら、考察も理屈も論理もへったくれもないのだから、長々書く必要もないではないか。
偶然の産物に論理も理屈も通用しなのだから。
さっさとまともな考えにもどしましょう、今までの戦後史観は間違いでした無かったことにします、終わり。
で終了である。

一旦はこの文章を読んで読むのを投げてしっまた。
だが気を取り直して一応は全文を読んだ。
戦後、その当時のサブカル、文化、流行などを結び付け日本人の戦後思想とファンタジー戦後史観を
解説しているのだが、どうもこじつけも多い気がする。
ノストラダムスの項ではちょっとそれはどうなの?と思う所もあるが、著者のキャラから来るものか、面白いのも確かだ。


順を追って指摘していくと、まず、マッカーサーの人物評は自分は大きく著者とは異なる
著者の佐藤氏はマッカーサーは天才的な軍人でありと評しているが、自分はそうは思わない
どちらかと言うと、自分は高山正之氏のマッカーサー像の方がしっくりくる。

高山氏はマッカーサーを無能、で馬鹿な虚栄心や功名心の塊で戦後の世界状況を把握できなかった
馬鹿と評している。

己が大統領になる為、連合国総司令官の地位を私事に悪用し、
その上大統領にもなれなかったのだからお笑い種もいいところであるし
戦後ソ連はアメリカと同じ己らの味方とトールマン大統領同様思い込んでた節があり
左翼の脅威を微塵も感じていなかったという点で、思想的白痴状態であったのだとアメリカの指導部を評している
これはマッカーサーも例外ではない。

アイシャルリターンなどと言う芝居がかった捨て台詞を吐いてオーストラリアに落ち延びるあたりも無様である。
フィリピンに侵攻した日本軍にそそくさと尻尾を巻いて、部下を見捨てて逃げる上官が天才的なのか?
私には著者がマッカーサーを神格化し、天才だと思う事が理解できない。
戦略的にも政治的にも先見の明が無いのだから、どう考えても天才ではないと自分は感じるのだが。
朝鮮半島で戦争が起こり、行き当たりばったりの日本統治政策を行ったという点で
どう考えてもマッカーサーが天才的とは言えまい。
慌てたアメリカが日本政府を突き、警察予備隊つまり自衛隊を創設させるのだが、この項はこの本で書かれている通りの
経過をたどることは事実だ。

それにしてもアメリカの上官指揮官と言うのは異常者が多い。
パットンにしても、マッカーサーにしても、ルメイにしてもハルゼーにしても
単なる差別主義者で自己顕示欲の塊のような連中ばかりではないか。


次に著者が掲げる日本の、戦後何でもありに陥った、ファンタジー戦後史観の脱却についての項で矛盾点がある。

まずファンタジー戦後史の定義と
戦後史がどうして作られ日本国民にこの考えが共有され今もって存続しているかだが
日本人の戦争に負けたことを無かったことにする
また負けを勝ったと言い張る為の強弁、言い訳、現実逃避の一種であり
アメリカの戦後の統治が寛大ではあるが穏健ではない二重性を含んだ統治によりアメリカを日本の味方、もしくは思想的な同胞と錯覚したという事である。
大日本帝国が掲げた八紘一宇はアメリカが掲げる世界新秩序である自由と平等を掲げたものと思想は一緒で


    真の日本=アメリカ=八紘一宇

  アメリカの覇権=日本の繁栄=八紘一宇の達成
であり

アメリカと日本は同一で八紘一宇は世界の覇権は日本が握る意味であるのだから、
八紘一宇を達成したのがアメリカに入れ替わっただけでアメリカと日本を同一とみることにより、
日本は負けたのではなく八紘一宇を達成した、つまりアメリカと共に勝者となったという
こじつけ、現実逃避を行ったというものだ。

そして、このファンタジー戦後史の崩壊の危機が1945年から現在位に至るまでの間に
4回危機に瀕しており、その4回ともこのファンタジー戦後史観の特徴である何でもありの構造によって
再構築立てなおされリピートするという機能が内包されてい、日本人は
戦後同じ場所をぐるぐる回っている状態であって
言うならば螺旋階段をひたすら登っていて、戦後一貫して同じ風景を見続けている、という理屈である。

次に著者のファンタジー戦後史を克服脱却、捨て去る為の定義と左翼保守についての考察である

・左翼は近代を否定し、戦前戦後両方を否定する事によって自滅した(いわゆる戦後左翼)

・三島由紀夫などの非戦後保守は戦後を否定し、戦前を肯定することにより自滅したと言っている。

・そして昨今流行りの反米保守つまるところ、戦前を肯定し戦後を否定し、
 戦後対米追従を是としてきた戦後保守をニセモノと批判し、自分たちが
 真の保守であるという新保守(と著者は定義している)も戦後という今を生きる者が
 戦後を否定しているのだから己の立脚点を失っているという点で、三島同様であり、
 戦後保守をニセモノに仕立て上げ抵抗勢力としてスケープゴートにするあたりは、
 小泉首相が行った構造改革路線の手法と同じであり、
 憲法改正、核武装など自分たちの都合のよい事だけは急進的に改革を推し進めようという勢力である・・・、
 と著者はチャンネル桜の水島聡を例に出して批判している。

著者はこのファンタジー戦後史を脱却だの、克服だの、捨て去る為には、だのと言っているが
著者の言う理屈で言えば、戦後を否定すれば、三島のように戦後史に潰されてしまうと、著者自身水島批判の項で詳しく語って言っているではないか。
そもそも脱却、とか、捨て去るだとか言うが、この言葉自体、戦後を否定する、捨てると言っているのだから
著者の理屈である自己の立脚点、つまりはファンタジー戦後史の時代を生きる、戦後史批判する者自身のアイデンティティーの否定であり、自滅の道を歩むこのになるだろう。

そして著者はこのファンタジー戦後史をどう克服するかについて、戦前と戦後両方を肯定するとだ、
と言っているのだから呆れる。
なら戦後、戦前共に肯定するのだから結局はファンタジー戦後史観は継続されるという事ではないのか?
戦後の肯定=ファンタジー戦後史の肯定であるのだから。

私の結論は著者の言う戦後史理論が正しいとすれば
ファンタジー戦後史の脱却など不可能だと言うほかない。
このファンタジー戦後史観にはまり込んだ原因は日本人自身の戦争に負けたという事からの現実逃避と負け惜しみであるのだから
負けを認めよ、と言ったところで詮無いことだ。
負けを認めたくないからこんなヘンテコなファンタジー戦後史に逃げ込み逃避してしまったのだから。
言ってる事が本末転倒である。

著者が言うには戦後史からの脱却を図る機会は日本の経済が混乱衰退し危機に見舞われた時に限られると言っていて
新自由主義的な構造改革グローバル化路線が破たんしつつある今現在(2008年リーマンショックから~2014年)そのチャンスであり今現在すすむ第四戦後日本の道を歩むか、戦前と戦後の両方を踏まえた新たな日本に進むかの分岐点だと言っているが
残念ならが間違いなく、日本はまた第四戦後の道を歩むだろう。

著者の佐藤氏自身、自分の父でもある構造改革路線を打ち出し中曽根政権のブレーンと言われた佐藤誠三郎が属したグループ一九八四を批判しているが、著者の属す表現者グループもまた、戦後レジームからの脱却だのと称しつつ戦後レジームの再構築をしようとしている安倍晋三首相を勉強会まで開き応援し支持したではないか。
まさにデジャヴとはこの事であり、皮肉なことだ。

しかも安倍は戦前の肯定と同時に、戦後の肯定、つまり、
靖国神社参拝、憲法改正など戦前の良い部分を持ち出し肯定すると同時に
構造改革、グローバル化をこの期に及んで押し進め、戦後日本の旗印でもある平和主義を推し進めるという
戦後と戦前の両方を肯定するという著者の理論を実践しているではないか。

戦前と戦後の両立、どう考えても無理があると思わないだろうか?
著者自身安倍の政策には批判の立場のはずであるから、著者の言ってる事はここでも矛盾していることになる
著者の掲げる理論を実行している安倍を著者自身で批判するという何ともおかしな話である。

結論を言えば戦後と戦前を両方肯定し、両立させるなど不可能に近いと言ってよい

はっきり言うが著者自身もファンタジー戦後史にどっぷりつかった人物であり、
先の大戦の日本の大敗から逃避してると言わざるをえまい。
最初の項で著者のマッカーサーの人物評を私は批判しているのだが、何故あそこまで著者はマッカーサーを天才だと思うのか?である。
つまり、はっきり言ってしまえば、マッカーサーを無能で馬鹿と言ってしまえば、その無能で馬鹿に負けた日本は何なんだという話になる。

だから、マッカーサーの神格化の話を出したり天才だと評する事で、日本は大東亜戦争でアメリカに大敗したが、日本人は本来優秀であり、天才に負けたのだからしようがないという風に負けを肯定している、そして本書の方で本来日本人は優秀であり・・・、と肯定しているのだから始末に悪い。
つまり逃避に過ぎない。そして著者は戦後を肯定する事と言っているのだから著者自身もファンタジー戦後史に絡めとられた人物と感じるのだ。

私ははっきり言おう。マッカーサーは馬鹿だ。無能だ。そしてその無能で馬鹿に負けた日本はもっと馬鹿で無能なのだと。
だから私自身、大馬鹿であると認める。
著者の言う現実逃避、吉田茂が言った、負けっぷりをよくしようだのと言うふざけた虚勢、負けを勝ちにする見栄と言う日本人の悪しき思考から脱却するのは己の非力、無力無能さを認める所から始まるのだから。
負けは負けであり勝ちは勝ちだ。
だったら次勝てばいい事であるから、著者の様に終わったことを、グダグダ理屈をこねて言ったところでしょうがあるまい。

戦後史なぞ、著者の師西部邁氏がいうとこころの、戦前の残りカスの様なものなのだから戦後など肯定するにも値せぬしその戦後に生きる日本人もまた大した事は無いと言うほかあるまい。

どうせ無理なら三島の様にあたって砕けるか、
今の日本の世の中に背を向けてペシミズムを気取って今の世を楽しむしかない事だろう。

著者に言ってやりたい。


小林秀雄曰く、

利口な奴はたんと反省するがよい。私は馬鹿だから反省なぞしない



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保守とは何だろうか (NHK出版新書 418)  書評

保守とは何だろうか (NHK出版新書 418)保守とは何だろうか (NHK出版新書 418)
(2013/10/08)
中野 剛志

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アマゾンレビューに書かれているレビューに補足して書評を更新しておきます。
この本はいろいろと問題提起的な部分やコールリッジ研究の為の入門書的な意味でも結構役に立ちます

保守思想は主義になり得るのか?信仰という直観的視点から保守を考察した問題提起的な一冊

本書の構成は今現在保守と自称する勢力の保守の現状をつまびらかに記し
真正の保守、つまり元来の保守とはそもそもどういう思想の形であり
思考の変遷を辿るのかを著者がイギリスの詩人にして思想家の
サミュエル・テイラー・コールリッジの思想から紐解こうという論考的一冊である

序章は迷走する保守の退廃的な状況を断罪し新自由主義に毒され死に至ってしまった原因をまとめている。
真の保守とは何かを定義して各々、財政、金融、社会、科学、国家について著者が論考を交え保守がとる立場を説いている

まず、一章の財政にいての考察はケインズ的な政策がデフレ状況下での適切な処方箋であり
税制について保守のとる立場は減税と財政規律ではなく、
消費税という逆進的な税を増税するのではなく怠惰な資本家や富裕層に対して
税負担を大きくする累進制の税制が適切な選択であると説く。
この論に関しては反対の余地はない。

二章は金融に関してで市場経済は自己調整機能は無く神の見えざる手は机上の空論であり、
国家や文化を破壊してしまう自由主義経済の
暴走をコントロールするのは国家と人間の持つ道徳心、モラルであると説く。
そして経済的自由主義は営利の過剰をもたらし、市場経済の不安定化と破壊をもたらすのであり
この営利の過剰をいかにコントロールしていくかについて書かれている

三章は金融からさらに大きな社会に目を向け、
道徳のありよう、形成の仕方、社会形成における漸進的な改革について述べ、さらに深く四章の科学に繋がり
五章については国家の問題を前章の科学で解き明かしたコールリッジの生の哲学論を踏まえての国家論、
国体の本質、政治的理性の限界についてなどを述べている
問題は第四章の科学についての考察で、著者と私は意見が異なる面がある。

著者はコールリッジの理論を用いて、科学とは信仰であり、機械的哲学論、啓蒙主義的な悟性を主とした
合理主義や実証主義について批判している。
客観とはそもそもありえないもので、人間の悟性とはそもそも不確実なもので出発点は感性、感覚などの直観的なものから始まるものであると説き機械的哲学論は死の哲学であり
それに代わる生の哲学論が重要だと提唱している。
そこには自分の感じた直観を信じる、つまり信仰から科学が始まるのであり、科学は宗教と同じ信仰が出発点であるとしている。


この論について大筋で自分は認めるが、自分がこの論を採用、信じられない疑問に思う理由が三つある。

1、著者は四章科学において、合理主義を批判し、三章においてプラグマティズムを重要視しているが
  そもそもプラグマティズムは道具主義であり、状況対応主義であって、
  その思想はある意味非常に合理主義的な側面をはらんでいるのではないか?
  
2、科学は直観から始まるものであり、信仰は主観的で感覚、感性、予感、預言的なもの、
  つまり直観的なものであり、それを信じるところから出発する。
  科学と宗教は実は同じ形態のものであり、キリスト教における聖書の教義は知の指針となる得るという
  考えは余りにも人間の理性や直観に傾きすぎた考えで性善説すぎるのではなかろうか?

3、福田恆存は保守を思想として捉え、保守思想であり保守主義にはなり得ないと考えた。
  保守が柔軟な思考を捨て、硬直化した固定観念や理念に陥る主義化した保守ははたして保守なのだろうか?

私は個人的には無神論者であるので哲学と宗教の信仰心を同一でとらえる時点で違和感があるのだが、
やはりコールリッジはロマン主義派の詩人としての要素が強いと私は感じる。
人間の精神性や感性が万能と思わせるような論には違和感があり、
その理屈でいけば機械的な哲学論を振りかざす実証主義者と変わりなく、
単なるアンチテーゼであって本書を読んでいて思ったが、暗黙知や聖書の言葉を引用し、
「信じなければ、理解することは無い」と言っているがはたして
盲目的に信じることが理性なのだろうか?
信じると同時に懐疑し批判することもまた感性から出発する人間の理性の出発点だと思うのだが。

カール・ポパーは論文集『推測と反駁 科学的知識の発展』において

「科学は神話とともに、そして神話に対する批判とともに始まる。
たくさんの観測結果でも、実験方法の発明でもなく、
神話や魔術的技術・営為に対する批判的討論とともに。
科学的流儀は前科学的流儀とは二つの層で異なる。
前科学的流儀では、それはそれ自身の理論を通過する。
しかしそれはそれらに対する批判的態度をも通過する。
理論は独断的教義としてではなく、理論について議論したり理論を改良したりすることで通過する」
と書いている。

信じることと同時に、懐疑し批判することも理性であると自分は考える。
また人間の感じる予感や感覚というものは実はあてにならないという、
実存主義者のジャン・ポール・サルトルが唱えた錯覚の理論に対して、どう著者は答えるのだろうか?
サルトルの言っている錯覚論を借りて説明すれば、新自由主義者という狂人もまた己の信じた(信仰ともいうべき感覚や予感にしたがって)直観でその考えを択んでいるのだから
彼らもまた正しいという事になり、相対主義にはまり込んでいくのではなかろうか?
そもそも、新自由主義者という狂人の内なる感覚による未来を信じられるだろうか?
少なくとも反グローバル、新自由主義思想に反対している立場の人間は彼等の主義は信じられないだろう。
少なくとも新自由主義に嵌まる人間は経済思想において錯覚を起こしているとしか言いようがないのである
つまり、この本の問題点はその信仰の基準が明確に示されておらず、またその基準など示すことが不可能という点で、無限訴求に陥ったり、堂々巡り相対化に嵌まって行ってしまうという点である。

暗黙知と言われても、人それぞれ経済理論一つとっても新自由主義的な経済論を正しいと思う人間もいれば、ケインズ経済学やマルクス経済学が正しいと思う人間もいて、これでは結論が出せない。
新自由主義者にしてみれば自分たちの信仰する経済理論が上手くいかないのは
完全自由な規制の無い状態が実現されないからだ!というに違いないし、普通に言っている。
完全な自由が確立し達成されれば、トリクルダウン理論などを用いてすべての人間が豊かになると信じている人間に対しあなたの言っていることは間違いだと説得などできないではなかろうか?
著者の師でもある西部邁氏は要約して言うが「保守とは基準さがしである」とも言っている。
この物事の善悪、正邪、などの基準を求めるとなるとやはり実践知ともいうべき経験主義的な側面も重要であろうと思う。

信仰しようと思うにもそれを信仰するに足りる判断基準や定義が無ければ信仰にはならないのである。

そして、福田恆存が保守を主義としなかったのはやはり思想の硬直化と保守思想の要諦である柔軟なバランス感覚が主義にしてしまう事によって失われ変容してしまい
それは保守であって保守でなくなってしまうという矛盾を孕んでいるからだと自分は考えた。
もし、保守思想を主義にまで発展させ体系化させるのなら少数にしか理解できないような理論であるなら主義化はできないと言った方がよいかもしれない
常に正しい保守というのはいつの時代も少数派なのである。

信じることを信じるのが理性の根源なら、疑う事、懐疑という感覚に従う事も自分の感性を信じること

この本ではまず信じよ、と言っているが、自分は疑う事、怪しむこと、懐疑し警戒する事に従ってその行為を信じることも感性だと自分は思う。
コールリッジは科学にしてもまずは自分の思った事に従い、信じることから科学は始まると言っているのだから
すべての人間の理性の根源は予感や預言など漠然と感じる直観的なものから来るのだろうというのには自分は納得しているのである。

Aという事象の答えに対し、その答えを信じるというA´の感性があるとしよう。
だがもしもその答えに対し、漠然だが不安や危険な雰囲気を感じて
それを否定する行為、批判するというBという感性を信じるという選択肢もあるのである。

これは単純な例だが人間には1の事象に対して無数の感性から来る直感的もしくは直観的な感覚が
漠然とだが備わっているといってよい。
多分だが、この答えに対して信じてみようと思うのは
人間の経験から来るその答えの漠然とだが安心感や安全な上手くいくと直観的に感じ取っている、
答えを知っているという意味で、哲学的な用語でいえば暗黙知というこの本でも説明されている感覚であり理性へ繋がる人間の行為だろう。

だが自分が説明しているその事象に対して不安や懐疑、怪しさや危険性を感じるという漠然とした感覚もまた
感性だと思うのである。本書ではそういうものは動物でも備わっているいわゆる悟性と説明しているが
五感から来る動物的な感覚とはまた違った経験から来る直感で危険を察知するという事も同じことだという事だ。

人間の感性というものの根源はやはり原始的な本能が根源なんだと思う。
本能には自分が生きて行くための安定を求める確実性を求める感覚と、危機や危険を感覚的に察知する危機回避のための感覚の両面があると思うからだ。

イマヌエル・カントの言う純粋理性批判における認識論が参考になると思われるがカントの著書については
私は熟読をしていないので自分の言っていることに触れているかは判らない。
だが、根源的には人間の根源は本能であり、本能は生きるための行為に備わったものであるから善悪二元論で
片づけることの出来ないものであるため、その本質を言葉で言い表そうとすると不確かで難しく定義し難いものになる。

本能の本質や形態を説明し構造を言葉で把握することが果たしてできるかどうか分からないからだ。


最終的にはイデア論に差し戻されるという事か

コールリッジの言う言説の理解し難い所は、突き詰めて考えると結局イデア論とニヒリズムについての議論になってしまい、
らっきょの皮むきの様な際限ない無限訴求に陥ってしまうという点だと私は感じた。
ニーチェは神は死んだとして、今までイデアの最高の形態の定義であった信仰の象徴である神という存在は
人間の作り出した形而上学を乗り越える、もしくは誤魔化すための存在でありそんなものは存在しないとして
無価値なもとしてニヒリズムものを生み出した。

このことによって神という存在を信じよといわれてもそうもいかないのである。
つまり神に代わるイデアが必要、もしくはそれを乗り越えるために何かする、またはすべてが無価値として
その流れに身を任せ、ニヒリズムに沈み込むという選択肢があるからだ。
結局はこの問題は解決できない状況で今日来ているわけで、イデアの超越の問題とニヒリズムについての議論は
自分では解決不能であり、棚上げするしかないと思う。

中野氏は保守主義の定義を漠然とだがしないといけないとは言っているが、漠然では困るわけで
新自由主義のような明快な自由を掲げたり、社会主義のような平等を掲げるという事が出来ない保守は
主義として成り立つのか疑問である。

もし保守が主義になるのならばすべての判断基準を明確にし物事の限界を定義できるかどうかである。
それこそ膨大な物事への基準探しや限界点を探る作業になるわけではたしてそんなことが共通に意識として
大多数に受け入られ主義化していくことが可能なのだろうか?と思うわけだ。


長くなってしまったが、著者の本は一章二章においては経済的な側面で保守のとる立場を分かりやすく纏められており、参考にもなるだろう。
だが、著者が書いている通り、学術的な面からの考察を避けているため、もっと重点を置いてほしかった。
科学の章の部分では何とも中途半端な面もあり、ページの関係もあるのだろうが消化不良は否めないと感じてしまったのである。
よって☆は3つとさせていただきます。
  



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反動世代 日本の政治を取り戻す  書評

反動世代―日本の政治を取り戻す反動世代―日本の政治を取り戻す
(2013/06/28)
中野 剛志、三橋 貴明 他

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四者四様の交錯する思想と理論 新たなる世代

中野氏、三橋氏、柴山氏、施氏4人の思想や印象を例えていくと

中野氏、

保守というより国民社会主義的な思想。
ナショナルソーシャリズムが中野氏の思想の根底だろう

乱暴で煽るような表現や言動が多いが、見かけによらず繊細で緻密で
いつも言うように狡猾でしたたか。
私としては以前は中野氏の言論には魅力を感じていたが煽るような表現や手段を択ばない嘘を交えたレトリックに
辟易したこともあってこの言論人は違うと自分は判断して距離を置いた。
またあとで述べるが三橋貴明とつるんでいるという点で不信感しかないというのもある。

三橋氏、

扇動家、活動家の側面が強く、オポチュニズム的な思想形態であり、
自分ははっきり言って合わないし嫌いである。
昨今の安倍政権擁護からの変節と狡さ、言葉の軽さが好きになれないし、自分の信義を重んずるものの考え方には合わない
書評なのでここでの批判は避けるが、自分の中では眼中に無い人物であり、個別の政策では共通する部分もあるが、どちらかというと批判の対象である。

柴山氏、

歴史学の観点からの経済学、そして新古典派経済学やマルクス経済学ではなく、
ケインズ経済学の研究者として自分は認識している。
机上の空論、実態からかけ離れた数理モデル前提の経済学ではなく、人間の生存や生活に根差した実践経済学を主としている。
西部門下の弟子は数多いが自分は中野氏や藤井聡氏より、柴山氏や佐藤健志氏のほうが好感が持てる

一言で言えば、思慮深く、重厚な深い考察を氏からは感じる。
西部氏の後継者は自分は柴山氏のような気がするのである。

施氏、

ナショナルリベラリズム思想を主とし、マイケル・サンデルなどの共同体主義にも影響を受けている。
自分はサンデル氏のこれからの正義の話をしようを読んだが自分は共同体主義者ではなく
やっぱり個人主義的思想が強うのだろうと思えたのだ。
確かに共同体による相互互助や公助、共助というもは必要ではあるが、やはり自分は自助というものがなければ
始まらないとも思ってしまうのである。

施氏の印象は物腰や言動に似合わず、中野氏が言うように、良い意味で過激、豪胆。
本人は懐古主義的なのだと言っているが、自分はその懐古主義が今、時代が求めているものだと思うのである。


今の日本を穿つ反動思想 交差し重なり合う四者の主張


一見バラバラに思える4人の言論人であるが、4にに共通するのは
戦後従来型の左翼思想でもなく、右翼思想でもなく、また、世間一般のリベラリズムや保守でもない。

また四者とも反グローバリズム、反新自由主義、反構造改革論者であるという点だ。

戦後の日本の言論空間のほうが異常であり、反動世代とタイトルはなっているが至極まっとうな理論を展開しているだけである。



本書読んでの苦言や感想を言えば確かに読みやすいが物足りなさも感じる。
今後、追いかけていきたい、もっと深く知りたいと思うのは柴山氏や施氏だ。
自分は心のどこかで所詮思想や言論などその時代時代でうつろうもので、福田恆存が言うようにむなしいものだと思う。
自分の血肉となるような思想を自分は求めているので、信用や信頼というより言論人の理論や考え方を利用するという立場なのである。

何とも私はやはり客観的でドライな人間なんだろうな~と。
思想的にも小林秀雄より福田恆存。
カール・ポパーの反証哲学や無謬性についての考察、ハンティントン、ケネス・ウォルツ、カント、実存主義などに興味がわくのである。
だからプラグマティックな理論や非現実的な理想論などは自分は興味が沸かないのである
自分はあくまでも現実主義が性に合ってるし個人主義的なのだとつくづく感じてしまう時がある。

自分は未来がどうなろうがあまり興味はないのかもしれない。今現在の自分の生活とライフスタイルが守れて
懐かしい懐古趣味的なのかもしれないが過去の記憶に浸れるような人生があれば良いと思うのである。
だから、私は自分のライフスタイルを脅かすような政策や思想に本能的に必然に迫られるという意味で反対しているのかもしれないのだ。
だから、サヨクや新自由主義者のような自分の主義主張、欲望や利権のためなら国家や共同体の破壊も厭わずというような無分別で愚かな行為には眉を顰め、嫌悪するしかないのである。

そういう意味において、自分も彼らの放つ怪しくも反動と世で呼ばれる理論や思想に魅力を感じるのかもしれない。

最後に、アクの強い個性的な四者のインタビューをまとめ、一つの本に仕上げた森健氏に敬意と謝辞を申し述べたい。
歯に絹着せぬ四者の印象を綴っており、各人各々感じる疑問点や問題点もえぐり出し、批判と批評を兼ね備えた良い本になっている。

問題点はやはり各言論人の思想の表層的な部分を説明解説した案内書という感じであり
各言論人についてもっと深く知りたいのならばさらに本を買う必要があるという事だ。
初心者向け入門者向けの書籍だと自分は感じた。
自分が知りたい思想や知識、自分の考え傾倒する思想や主義が固まってる人にはあてが外れたり、もの足りなさを感じるかもしれないという点を付け加えておく。


点数 50点



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年収300万円、掃除夫の僕が1億円貯めた方法 書評

年収300万円、掃除夫の僕が1億円貯めた方法年収300万円、掃除夫の僕が1億円貯めた方法
(2013/06/26)
www9945

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投資本と言ういより、著者の投資半生を書き綴った投資録と言った感じ。
これをまねても儲かるわけではない



この本の書評

この本はデイトレードやスイングトレードといった短期売買では無く
バリュー投資やグロース投資といった中長期の投資方法を中心として
著者が億り人になるまでの投資録と言った感じか。

1章から3章までは著者の投資半生の回想録の様なものが綴られているが
はっきり言って著者の人間性は最低と言わざるを得ない
1章のナンバーワン営業マンのプレッシャーなどと言っておきながら
読んでいくと、適当な営業でサボってばかりだがなぜか成績はトップだとかほざいている。
その後苦しみを味わう事になるとかどうとかタラタラ書かれているが
結局の所、こんなめんどくさい仕事をさっさと辞めて株で食っていきたいが自分の思う通りに行かなくて
イライラしていた、もしくはふて腐れていただけだという事が判る内容。

最初の納豆メーカーを止めた後、株で食っていこうにも上手くいかず
結局親戚の清掃業会社に面倒を見てもらい挙句の果てには
その清掃業も嫌になって、父親に車で迎えに来てもらい気晴らしに旅行に出かけるなどと言う
甘えっぷりだ。


以下本書から引用
2章64~66ページ

資産5000万円の虚無感、そして失踪

仕事がつまらない。専業投資家としてやっていけるのではないか。
そんな思いが心に芽生えてくると、とたんに労働意欲が失われていった。

          ~長いので省略~

翌日、父親と2人で旅行する事になった。まだ脱力感は抜けておらず、行きたくはなかったが
強く勧める父親の誘いを振りくる気力も無かった。
男2人の車中、父親にハンドルを任せ、私はずっと泣いていた。昨日のこと、上司のあたたかさ
今までにかけたさまざまな迷惑とそれを許してくれた人たちの事を思い出しながら。

父親は普段の生活とは似つかない高級旅館へと車を進め、一泊した。
翌日には気力が回復していた。
この時の事は今でも感謝している。あのままならきっと今頃は社内うつで休職か退職していただろう
とはいえ、ハンカチで涙をふく反対の手では携帯電話で株価をチェックしていたのだから、
自分も図太い。




はっ??
あのままなら社内うつになっていた??
アホを言っちゃいけません。
社内うつになるほど追い込まれてる人間が携帯電話で株価をチェックするか?
最後に自分も図太いって言ってるではないか。

本当に人様に迷惑をかけた、感謝してるというなら
カイジの兵藤会長ではないが焼き土下座ぐらいしろと言いたい
勝手に最初の納豆メーカーも辞めて今度は清掃会社もめんどくさい、株で儲けたいから
めんどくさくなってきた会社に対して無断欠勤で駄々をこねる。
最低だ。

目次を読んでいても判るが
上がる成績、汚れていく自分だとか、兎に角鼻につく。
あんたは綺麗な心を持った聖人か何かだと思ってるのだろうか。
あなたは端から汚れてるから心配ない。
やはり株で億り人になる人って言うのは性格が歪んでる人が多いと実感した。
はっきり言って著者は人様に温情ばかり求めるくせに、他者に対しては冷たい
自己顕示欲と自己欺瞞に満ちた薄情な人間だという事が読んでいけば分かる。
著者のブログにこんな事が書かれていた↓

著者のブログからの引用

お話しすることは、街角ウオッチです。つくづく思うのですが、「人のいない地方に政府予算をつぎ込んでも効率が悪い。人が多い都市部につぎ込む方が乗数効果を呼ぶのに。都市の繁華街を活性化させる方が雇用促進に貢献するのではないか?」という点です。

株で言うと、お金の流れている方に資金を投入すれば、より投資効率が高いという当たり前の原則が忘れられているような気がします。

http://plaza.rakuten.co.jp/www9945/diary/201308100000/



はい、結局は著者自身も地方出身でありながらこういう事を言うこと自体がひとでなしなんです。
都心の方が乗数効果も高いし地方は無駄なので、じゃ、地方は滅びなさいと。
著者の理屈だと東北地方は田舎だからあんなものに復興予算だの公共事業で強靭化だのやっても
乗数効果で無駄になるから都心の安全性の強化のために公共事業はやった方が良い、まあ、田舎はカネの無駄だから打ち捨てればよいと聞こえてならないのだが。

藤井聡内閣参与が聞いたらブチ切れるでしょうな~。
人の命や人生を乗数効果などと言う理論で切り捨てるんですかと。
ほんと絵に描いた様な偽善者ですね。
表面では感謝と言っていながら文面を読んでいくとかなり冷血な人間性を感じるのは自分だけでしょうか。
投資と国家の運営を同列に考えるのは明らかな間違いだ。
経営と国家運営は一緒と言ってるどこぞのブラック企業の社長と変わらないのではないか。

本を出すなら投資の勉強ばかりでなく、日本語の勉強もしましょうね、と言いたい。
本人は悪気が無く言ってるのなら重症だ。
いくら利殖に長けていても政治経済はからっきしダメ、もしくはトンデモと言うのがトレーダーや投資家など
金融関係の人種には多い。

そして、4章~6章は著者の投資法がざっくり(あくまでも大まかだ)解説説明されている。

投資法の中で疑問不自然に思った点が一つある。
配当利回り狙いの投資手法でのスクリーニングの解説で
株主資本比率が40%以上が望ましいと本書では書かれているが
別の書籍「稼ぐ人の株投資 億越えの方程式」では、株主資本比率は50%と解説している
銘柄選定においてこういう基準というのはそんなにあやふやでルーズでいいものなのだろうか?

詳しい解説も書かれてないし、どうして選定基準が本によって変わるのか理解できない。
そういう意味でやはり著者の投資法のあくまでも概要だけで本質の部分はブラックボックスの部分が
あるのではないかと勘繰りざるを得ない。
あくまでもバリュー投資の成功例として参考程度に留めておくべきだと自分は感じた。

武田信玄も言っているが、同じ質問を3回して同じ答えが返ってこなければその者はうそつきだという
名言格言がある。
著者が嘘つきかどうかは判断しかねるが少なくともいい加減ではあるなと
1~3章を読んでいれば感じざるをえない。

別の投資本に書いてあったが世に出る手法はもうすでに使えなくなった手法である可能性が高いという事を思い出した。
結局は株価も高止まり状態(2013年9月現在)であり、バリュー投資としては時期も悪いし今すぐに
できる投資法では無いと感じる。その上でこういう本が出るという事は
著者自身も自分の編み出した手法を餌にもうひと儲けと言う考えが透けて見える。
投資で儲けて、さらに手法の公開やセミナー、で儲ける。
著者もなかなか感謝だとか言いながらしたたかで油断ならない人間だと読んでいて思った。

本書の項で週刊誌でわかる相場の天井シグナルという項目があるがP127⑥で

通勤途中のコンビニで週刊誌の袋とじを必死になって見ようとしている欲ボケサラリーマン
などと罵っているが
あなたも社会人として大概だと思うのだが・・・。
他にもカラ売りの様なさもしい行為云々、イチイチ文章が癇に障る文章表現が多々見られる。
私に言わせれば本書の様な書籍が世に出回る頃というのは一相場終わる相場末期のシグナルだと
いいたくなる。

本書を総括するとあくまでもこの本だけで投資を始めようとか、思ってはいけないし
これが絶対ではない。当たり前だが。
こういう投資関連の本は100項目があれば1つや2つためになる部分があればおんの字ぐらいの気持ちで
読まなければいけないという事だ。
バリュー投資の成功例を知りたいというのであれば、本書はそれなりの価値はある。
だが詳しく知りたいのなら他のバリュー投資関連の本を読まなければダメだと感じる。
本の内容のわりには結構高めの値段設定。興味のある方、成功者の人生を垣間見てみたいと思う方には
それなりの価値はあると思うが自分には星一つが限界だ。

厳しい書評になってしまったが著者が思う所があるのなら、こういう煽る様な文面は慎んでほしいと
私は感じた。



点数20点



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