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保守とは何だろうか (NHK出版新書 418)  書評

保守とは何だろうか (NHK出版新書 418)保守とは何だろうか (NHK出版新書 418)
(2013/10/08)
中野 剛志

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アマゾンレビューに書かれているレビューに補足して書評を更新しておきます。
この本はいろいろと問題提起的な部分やコールリッジ研究の為の入門書的な意味でも結構役に立ちます

保守思想は主義になり得るのか?信仰という直観的視点から保守を考察した問題提起的な一冊

本書の構成は今現在保守と自称する勢力の保守の現状をつまびらかに記し
真正の保守、つまり元来の保守とはそもそもどういう思想の形であり
思考の変遷を辿るのかを著者がイギリスの詩人にして思想家の
サミュエル・テイラー・コールリッジの思想から紐解こうという論考的一冊である

序章は迷走する保守の退廃的な状況を断罪し新自由主義に毒され死に至ってしまった原因をまとめている。
真の保守とは何かを定義して各々、財政、金融、社会、科学、国家について著者が論考を交え保守がとる立場を説いている

まず、一章の財政にいての考察はケインズ的な政策がデフレ状況下での適切な処方箋であり
税制について保守のとる立場は減税と財政規律ではなく、
消費税という逆進的な税を増税するのではなく怠惰な資本家や富裕層に対して
税負担を大きくする累進制の税制が適切な選択であると説く。
この論に関しては反対の余地はない。

二章は金融に関してで市場経済は自己調整機能は無く神の見えざる手は机上の空論であり、
国家や文化を破壊してしまう自由主義経済の
暴走をコントロールするのは国家と人間の持つ道徳心、モラルであると説く。
そして経済的自由主義は営利の過剰をもたらし、市場経済の不安定化と破壊をもたらすのであり
この営利の過剰をいかにコントロールしていくかについて書かれている

三章は金融からさらに大きな社会に目を向け、
道徳のありよう、形成の仕方、社会形成における漸進的な改革について述べ、さらに深く四章の科学に繋がり
五章については国家の問題を前章の科学で解き明かしたコールリッジの生の哲学論を踏まえての国家論、
国体の本質、政治的理性の限界についてなどを述べている
問題は第四章の科学についての考察で、著者と私は意見が異なる面がある。

著者はコールリッジの理論を用いて、科学とは信仰であり、機械的哲学論、啓蒙主義的な悟性を主とした
合理主義や実証主義について批判している。
客観とはそもそもありえないもので、人間の悟性とはそもそも不確実なもので出発点は感性、感覚などの直観的なものから始まるものであると説き機械的哲学論は死の哲学であり
それに代わる生の哲学論が重要だと提唱している。
そこには自分の感じた直観を信じる、つまり信仰から科学が始まるのであり、科学は宗教と同じ信仰が出発点であるとしている。


この論について大筋で自分は認めるが、自分がこの論を採用、信じられない疑問に思う理由が三つある。

1、著者は四章科学において、合理主義を批判し、三章においてプラグマティズムを重要視しているが
  そもそもプラグマティズムは道具主義であり、状況対応主義であって、
  その思想はある意味非常に合理主義的な側面をはらんでいるのではないか?
  
2、科学は直観から始まるものであり、信仰は主観的で感覚、感性、予感、預言的なもの、
  つまり直観的なものであり、それを信じるところから出発する。
  科学と宗教は実は同じ形態のものであり、キリスト教における聖書の教義は知の指針となる得るという
  考えは余りにも人間の理性や直観に傾きすぎた考えで性善説すぎるのではなかろうか?

3、福田恆存は保守を思想として捉え、保守思想であり保守主義にはなり得ないと考えた。
  保守が柔軟な思考を捨て、硬直化した固定観念や理念に陥る主義化した保守ははたして保守なのだろうか?

私は個人的には無神論者であるので哲学と宗教の信仰心を同一でとらえる時点で違和感があるのだが、
やはりコールリッジはロマン主義派の詩人としての要素が強いと私は感じる。
人間の精神性や感性が万能と思わせるような論には違和感があり、
その理屈でいけば機械的な哲学論を振りかざす実証主義者と変わりなく、
単なるアンチテーゼであって本書を読んでいて思ったが、暗黙知や聖書の言葉を引用し、
「信じなければ、理解することは無い」と言っているがはたして
盲目的に信じることが理性なのだろうか?
信じると同時に懐疑し批判することもまた感性から出発する人間の理性の出発点だと思うのだが。

カール・ポパーは論文集『推測と反駁 科学的知識の発展』において

「科学は神話とともに、そして神話に対する批判とともに始まる。
たくさんの観測結果でも、実験方法の発明でもなく、
神話や魔術的技術・営為に対する批判的討論とともに。
科学的流儀は前科学的流儀とは二つの層で異なる。
前科学的流儀では、それはそれ自身の理論を通過する。
しかしそれはそれらに対する批判的態度をも通過する。
理論は独断的教義としてではなく、理論について議論したり理論を改良したりすることで通過する」
と書いている。

信じることと同時に、懐疑し批判することも理性であると自分は考える。
また人間の感じる予感や感覚というものは実はあてにならないという、
実存主義者のジャン・ポール・サルトルが唱えた錯覚の理論に対して、どう著者は答えるのだろうか?
サルトルの言っている錯覚論を借りて説明すれば、新自由主義者という狂人もまた己の信じた(信仰ともいうべき感覚や予感にしたがって)直観でその考えを択んでいるのだから
彼らもまた正しいという事になり、相対主義にはまり込んでいくのではなかろうか?
そもそも、新自由主義者という狂人の内なる感覚による未来を信じられるだろうか?
少なくとも反グローバル、新自由主義思想に反対している立場の人間は彼等の主義は信じられないだろう。
少なくとも新自由主義に嵌まる人間は経済思想において錯覚を起こしているとしか言いようがないのである
つまり、この本の問題点はその信仰の基準が明確に示されておらず、またその基準など示すことが不可能という点で、無限訴求に陥ったり、堂々巡り相対化に嵌まって行ってしまうという点である。

暗黙知と言われても、人それぞれ経済理論一つとっても新自由主義的な経済論を正しいと思う人間もいれば、ケインズ経済学やマルクス経済学が正しいと思う人間もいて、これでは結論が出せない。
新自由主義者にしてみれば自分たちの信仰する経済理論が上手くいかないのは
完全自由な規制の無い状態が実現されないからだ!というに違いないし、普通に言っている。
完全な自由が確立し達成されれば、トリクルダウン理論などを用いてすべての人間が豊かになると信じている人間に対しあなたの言っていることは間違いだと説得などできないではなかろうか?
著者の師でもある西部邁氏は要約して言うが「保守とは基準さがしである」とも言っている。
この物事の善悪、正邪、などの基準を求めるとなるとやはり実践知ともいうべき経験主義的な側面も重要であろうと思う。

信仰しようと思うにもそれを信仰するに足りる判断基準や定義が無ければ信仰にはならないのである。

そして、福田恆存が保守を主義としなかったのはやはり思想の硬直化と保守思想の要諦である柔軟なバランス感覚が主義にしてしまう事によって失われ変容してしまい
それは保守であって保守でなくなってしまうという矛盾を孕んでいるからだと自分は考えた。
もし、保守思想を主義にまで発展させ体系化させるのなら少数にしか理解できないような理論であるなら主義化はできないと言った方がよいかもしれない
常に正しい保守というのはいつの時代も少数派なのである。

信じることを信じるのが理性の根源なら、疑う事、懐疑という感覚に従う事も自分の感性を信じること

この本ではまず信じよ、と言っているが、自分は疑う事、怪しむこと、懐疑し警戒する事に従ってその行為を信じることも感性だと自分は思う。
コールリッジは科学にしてもまずは自分の思った事に従い、信じることから科学は始まると言っているのだから
すべての人間の理性の根源は予感や預言など漠然と感じる直観的なものから来るのだろうというのには自分は納得しているのである。

Aという事象の答えに対し、その答えを信じるというA´の感性があるとしよう。
だがもしもその答えに対し、漠然だが不安や危険な雰囲気を感じて
それを否定する行為、批判するというBという感性を信じるという選択肢もあるのである。

これは単純な例だが人間には1の事象に対して無数の感性から来る直感的もしくは直観的な感覚が
漠然とだが備わっているといってよい。
多分だが、この答えに対して信じてみようと思うのは
人間の経験から来るその答えの漠然とだが安心感や安全な上手くいくと直観的に感じ取っている、
答えを知っているという意味で、哲学的な用語でいえば暗黙知というこの本でも説明されている感覚であり理性へ繋がる人間の行為だろう。

だが自分が説明しているその事象に対して不安や懐疑、怪しさや危険性を感じるという漠然とした感覚もまた
感性だと思うのである。本書ではそういうものは動物でも備わっているいわゆる悟性と説明しているが
五感から来る動物的な感覚とはまた違った経験から来る直感で危険を察知するという事も同じことだという事だ。

人間の感性というものの根源はやはり原始的な本能が根源なんだと思う。
本能には自分が生きて行くための安定を求める確実性を求める感覚と、危機や危険を感覚的に察知する危機回避のための感覚の両面があると思うからだ。

イマヌエル・カントの言う純粋理性批判における認識論が参考になると思われるがカントの著書については
私は熟読をしていないので自分の言っていることに触れているかは判らない。
だが、根源的には人間の根源は本能であり、本能は生きるための行為に備わったものであるから善悪二元論で
片づけることの出来ないものであるため、その本質を言葉で言い表そうとすると不確かで難しく定義し難いものになる。

本能の本質や形態を説明し構造を言葉で把握することが果たしてできるかどうか分からないからだ。


最終的にはイデア論に差し戻されるという事か

コールリッジの言う言説の理解し難い所は、突き詰めて考えると結局イデア論とニヒリズムについての議論になってしまい、
らっきょの皮むきの様な際限ない無限訴求に陥ってしまうという点だと私は感じた。
ニーチェは神は死んだとして、今までイデアの最高の形態の定義であった信仰の象徴である神という存在は
人間の作り出した形而上学を乗り越える、もしくは誤魔化すための存在でありそんなものは存在しないとして
無価値なもとしてニヒリズムものを生み出した。

このことによって神という存在を信じよといわれてもそうもいかないのである。
つまり神に代わるイデアが必要、もしくはそれを乗り越えるために何かする、またはすべてが無価値として
その流れに身を任せ、ニヒリズムに沈み込むという選択肢があるからだ。
結局はこの問題は解決できない状況で今日来ているわけで、イデアの超越の問題とニヒリズムについての議論は
自分では解決不能であり、棚上げするしかないと思う。

中野氏は保守主義の定義を漠然とだがしないといけないとは言っているが、漠然では困るわけで
新自由主義のような明快な自由を掲げたり、社会主義のような平等を掲げるという事が出来ない保守は
主義として成り立つのか疑問である。

もし保守が主義になるのならばすべての判断基準を明確にし物事の限界を定義できるかどうかである。
それこそ膨大な物事への基準探しや限界点を探る作業になるわけではたしてそんなことが共通に意識として
大多数に受け入られ主義化していくことが可能なのだろうか?と思うわけだ。


長くなってしまったが、著者の本は一章二章においては経済的な側面で保守のとる立場を分かりやすく纏められており、参考にもなるだろう。
だが、著者が書いている通り、学術的な面からの考察を避けているため、もっと重点を置いてほしかった。
科学の章の部分では何とも中途半端な面もあり、ページの関係もあるのだろうが消化不良は否めないと感じてしまったのである。
よって☆は3つとさせていただきます。
  



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Comment

こんにちは! さすがの書評ですね。私は「感想」しか書けませんでした、ははは。着眼点が興味深くて、今度は速読という名の流し読みではなく、じっくり読まなきゃいけないと痛感させられます。脱帽! 立て続けに西部さんの本が出たようですが、どちらも高くて買おうかどうか迷っています(笑)。
  • 2013/11/21 21:14
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